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市史編さんこぼれ話No24 「村の鉄砲の行方」

更新日: 2013年(平成25年)2月25日  作成部署:教育委員会教育部 図書館

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  江戸時代の村には、大量の鉄砲があったことが、近年の研究で明らかになっている。ただし、村人は鉄砲で武装していたわけではなく、農具として、狩猟や害獣駆除のため、領主の許可をえて鉄砲を使用していた。小平市域の村々でも、「猪鹿狼多ク出作毛荒」のため百姓が迷惑しているとの理由で、たびたび代官から鉄砲を借りている。しかし、近世後期になると、いわゆるアウトローが鉄砲や刀などで武装するようになり、領主も鎮圧のために武器を使用するようになる。村人達も、地域を守るために武装するとともに、幕府も村人を農兵として組織した。

  農兵に対しては、狩猟用の火縄銃とは異なる、歩兵のための洋式銃(ゲベ-ル銃)が、幕府から貸与される。このとき村人は、250年ぶりに武器としての銃を手にすることになるのである。また、小平市域の村では和銃とゲベ-ル銃を「慶応年中埼玉県入間郡所沢町市場に於て姓名不明なる古物商なる者より買い取」ったとする記録もあり、幕末には日常的にも銃は流通していたようだ。

  明治維新後、農兵に貸与された鉄砲はどうなったのだろうか。明治3年(1870)、小川村組合11か村は「御筒拝借請書」を韮山県に提出している。これまで拝借していた洋式銃について返納するように命じられたが、「近来物騒敷時節悪もの共立廻り万一乱入およひ候節筒これ無く候ては差し支え」と、維新後も地域の治安は悪いままであり、銃がなくては悪党に立ち向かえないので、引き続き鉄砲を借りたいと願い出ている。村人が引き続き自衛のために武装していること、そのために洋式銃を借りていることが分かる。この時、小川村には5挺、小川新田には3挺、廻り田新田には1挺、小川村組合11か村には35挺もの洋式銃があった。さらに、この申し出に対し韮山県は、農兵に貸与していたゲベ-ル銃は既に旧式なので回収し、代わりにミニエ-銃を貸与したのである。徴兵制施行目前の段階で、既に村人は自衛の為に武装していた。

  明治5年になると、明治政府は「鉄砲取締規則」を発布し、民間の銃の取り締まりに乗り出す。銃や弾薬の取り引きが許可制・免許制になって管理される一方、民間では猟銃は免許銃として登録され、軍用銃は私的な所持を禁止され、これまで所持していた軍用銃は鉄砲に刻印した上で登録されることになる(保谷徹「免許銃・所持銃・拝借銃ノ―ト」)。 つまり、これまで農具として用いられてきた猟銃は免許銃となり、幕末期以降に自衛のために拝借・購入した洋式銃は所持銃として区別され、後者は新規に購入することが禁じられたのである。また、所持銃のなかでも、農兵に貸与された銃は拝借銃として念入りに調査された。

  「鉄砲取締規則」を受けて、明治6年、あらためて民間の鉄砲調査が行われる。この時の調査によると、小川村には5挺の、小川新田には3挺の、廻り田新田には1挺の、計9挺の拝借銃(ミニエ-銃)がある一方、そのほか3挺の所持銃(ゲベ-ル銃)があった。この3挺は幕末に自衛のために購入したものと思われ、さっそく県から登録番号が刻印されている。同時に調査をした神奈川県第11大区9小区11か村では、35挺の拝借銃と31挺のその他の所持銃があり、銃種もゲベ-ル銃・ミニエ-銃のほか、ピストルや馬乗銃、ヤーゲル銃など多様な銃が所持されていた。また、このほか多数の免許銃(和銃)が所持されていた。

  小平市域の村々では、その後も「鉄炮願扣」などの記録が残されており、そこでは「職猟鉄炮願」「新規願」「職猟銃御検査願」「銃猟免許状」として、和銃の所持や免許の更新、購入が行われていた。また、「廃銃願」として、拝借銃の洋式銃が「諸機械及筒中央折レ当時ニ至リテハ使用難仕」ということで取り潰して廃銃にされることもあった。こうして民間の鉄砲は国の詳細に把握するところとなったが、これらの武器が国に没収されることはなかった。

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