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更新日:2015年1月28日

作成部署:地域振興部 文化スポーツ課

鈴木遺跡発掘のきっかけとなった水車のあと

 鈴木遺跡の発掘調査は、今から40年前の昭和49年(1974年)に、今の鈴木小学校を建てる工事の時に本格的に始められました。

 そのきっかけとなったのは、江戸時代から明治時代に、玉川上水から引いた水で動いていた水車のあとでした。

 旧石器時代の発掘調査にかかる前に、この水車のあとも調査され、水路や排水用のトンネルなどが詳しく調べられました。

 その結果、最初小さかったこの水車が、急に大きくなり、また小さくなるように作り替えられていたことがわかりました。

 そこで、小平に残る江戸時代の絵図や古文書を調べたところ、びっくりするようなことがわかりました。


幕末の歴史と水車の関係

 この水車は深谷定右衛門という人が小麦を、うどんなどの材料となる小麦粉にするための粉ひき水車として建てたものでした。

 この平和な水車に大きな変化が起きたのは、嘉永6年(1853年)にアメリカのペリー提督が4隻の蒸気船でやってきた、黒船来航と呼ばれる事件が原因でした。

 幕府の命令で外国との戦争に備えて、江戸湾に台場という大砲の台がいくつも作られましたが、その責任者だった会津藩主松平肥後守容保が安政2年(1855年)に、大砲用の火薬作りをこの水車で始めたのです。

 そのころの火薬は「焔硝合薬(えんしょうごうやく)」と呼ばれ、木炭、硫黄、硝石を粉にひいて混ぜ合わせた黒色火薬でした。

 ところがわずか10か月ほどでこの火薬工場は爆発してしまい、このような危ないものは止めてほしい、という周辺の農民たちからの訴えで、もとの粉ひき水車に戻りました。

 発掘調査でわかった建て直しは、こうした変化を表していたのです。


遺跡が語る地域の歴史

 この水車が火薬工場に選ばれたのは、明治時代になっても直径が約6メートル60センチと、三階建ての建物ぐらいの巨大な水輪が回る強力な水車だったからですが、それが旧石器時代の鈴木遺跡の場所に作られたのは決して偶然ではなく、石神井川のかつての水源部が近くにあり、水車を回した水を低い土地に落とすことができるという地形が利用されたためと考えられています。

 このように、遺跡にはその土地で起きた色々な時代の出来事を私たちに教えてくれる証拠がたくさん埋まっているのです。


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