こだいらKID'S ぶるべーのさんぽみち

トップ > こだいらキッズ > 知ってる?こだいらのこと > こだいらの歴史 > 玉川上水(たまがわじょうすい)の歴史

玉川上水(たまがわじょうすい)の歴史

玉川上水の模型(もけい) 玉川上水の模型(もけい)

ぶるべー ぶるべー

小平に人が住めるようになったわけ

 小平市で最初(さいしょ)に開かれた小川村は、約350年前の明暦2年(1656)に、江戸までの石灰を運ぶ道として作られたことを話しました。しかし、明暦2年までここに村が開かれなかったのはなぜなのでしょうか。

それは、この辺(あたり)には川(かわ)がなく、人が生活するためにかかせない飲み水がえられなかったからだと言(い)われています。

このような所(ところ)に、羽村(はむら)から四ツ谷(よつや)までの水道(すいどう)計画(けいかく)が立てられ、承応(じょうおう)2年(1653)に玉川上水(たまがわじょうすい)が開通(かいつう)しました。また、その2年後の承応4年(1655)には現在の東京都(とうきょうと)水道局(すいどうきょく)小平監視所(こだいらかんししょ)の所から野火止用水(のびどめようすい)玉川上水が開通しました。

このことによって、小平には玉川上水と野火止用水という2本の川が流(なが)れることになったのです。この水は江戸や野火止村(現在の新座市(にいざし))などの飲み水となり、小川村が開かれた明暦2年には青梅街道に沿(そ)って小川分水も掘(ほ)られました。

こうして次々(つぎつぎ)と掘られた新しい堀(ほり)によって、小平には水が流れ、飲み水を手に入れることができるようになったのです。その結果(けっか)、ここに人が住めるようになりました。

どのようにして玉川上水が引かれたのか

 3代将軍(さんだいしょうぐん)徳川家光の時代になると、江戸の人口はどんどん増え、それまでの水道だけでは、飲み水が足りなくなります。承応(元年(1652)に、江戸幕府は水量(すいりょう)が豊富(ほうふ)な多摩川から、江戸に上水を引く計画を立てました。その工事(こうじ)を請(う)け負(お)ったのが玉川庄右衛門、清右衛門の兄弟(きょうだい)だと言われています。玉川兄弟は羽村に取り入れ口を造(つく)って多摩川の水を引き、四谷大木戸まで約43キロメートルの上水路(じょうすいろ)を完成(かんせい)させました。

玉川上水は、当時(とうじ)の水道としては世界一(せかいいち)の規模(きぼ)で、幕末(ばくまつ)から明治初(はじ)めにかけて日本に来た外国人(がいこくじん)を驚(おどろ)かせたのが、奈良(なら)の大仏(だいぶつ)と玉川上水であったと言われているほどです。

 夜(よる)に測量(そくりょう)を行(おこな)い、束(たば)にした線香(せんこう)やちょうちんの明(あ)かりを利用(りよう)して、土地(とち)の高低差(こうていさ)を調(しら)べたという言い伝(つた)えもあります。しかも、測量の結果、羽村から四谷大木戸までの高低差は約92メートルしかなく、自然(しぜん)の地形(ちけい)を利用して水が流れるように掘っていくのは、たいへん難しい工事でした。それにもかかわらず、機械(きかい)のない時代に、このような工事を8か月という短期間(たんきかん)で完成させたのは、すばらしい技術(ぎじゅつ)でした。

船(ふね)が通(とお)ったようす 船(ふね)が通(とお)ったようす

汽車(きしゃ)とぶるべー 汽車(きしゃ)とぶるべー

玉川上水に船(ふね)が通(とお)った

 武蔵野新田(しんでん)の農民たちは、江戸へ作物(さくもつ)や薪炭(しんたん)を運んで収入(しゅうにゅう)を得(え)ていましたが、江戸時代の後半(こうはん)になると、人馬(じんば)よりも輸送力(ゆそうりょく)のある船で荷物を運びたいという願(ねが)いが高(たか)まってきました。この願いがかなって明治3年(1870)から5年まで、玉川上水の船による輸送が実現します。

 満開(まんかい)の小金井桜の間を下(くだ)っていく船からの光景(こうけい)は、さぞかしすばらしかったことでしょう。船の長さは10.9メートル、幅(はば)は1.6メートルの大きさで、約2トンもの荷物を積むことができました。四谷大木戸(よつやおおきど)までの行きは、流れに沿って下るだけです。砂利(じゃり)、野菜(やさい)、炭(すみ)、まき、茶、たばこ、ぶどうなどの産物(さんぶつ)を運びました。四谷大木戸からの帰りは、米(こめ)、塩(しお)、魚類(ぎょるい)などの生活物資(せいかつぶっし)をのせて、船に綱(あみ)をつけ、人が岸(きし)から引っ張りながら上っていきます。多いときでは104艘(そう)もの船が行き来していました。荷物を運ぶだけでなく、人も乗(の)せました。

観光地(かんこうち)だった、小金井(こがねい)の桜(さくら)

 武蔵野の土地は稲作(いなさく)には適(てき)していなかったので、ほとんどが畑地(はたち)でした。しかし、水が乏(とぼ)しく肥料分(ひりょうぶん)の少ない畑だったうえに、凶作(きょうさく)が続(つづ)いて逃(に)げ出す農民(のうみん)も多(おお)く、飢(う)え死(じ)にする人さえいました。そんな中、川崎平右衛門(かわさきへいえもん)が武蔵野の新田(しんでん)世話役(せわやく)となりました。

 川崎平右衛門(かわさきへいえもん)は元文(げんぶん)2年(1737年)に、小金井橋を中心(ちゅうしん)とした喜平橋(きへいばし)から新し橋(現在の武蔵野市桜堤2丁目)までの玉川上水の両岸(りょうがん)、東西(とうざい)4キロメートルに数多くの桜を植えさせました。植えた理由(りゆう)は、桜が根(ね)を張(は)って堤(つつみ)を守(まも)る、花見客(はなみきゃく)で堤が踏(ふ)み固(かた)められ崩(くず)れを防(ふせ)ぐ、桜の花が毒(どく)を消(け)す効果(こうか)がある、ということがあげられています。これは、地域開発(ちいきかいはつ)であり、近隣(きんりん)の農民を救(すく)う政策(せいさく)だったということです。このことによって、文化(ぶんか)・文政(ぶんせい)のころ(1804年~1830年)になると、江戸一番の桜の名所(めいしょ)として知れ渡(わた)るようになりました。上水沿岸(えんがん)の農民たちは、花見客に座敷(ざしき)を貸(か)したり、茶店(さてん)を出したりして、商売(しょうばい)も盛(さか)んになりました。小金井橋のたもとには柏屋(かしわや)(花見茶屋)があり、この辺り一番の茶屋となり、柏屋の前の堤はたいへんにぎわいました。

 明治時代になっても堤はたくさんの花見客でにぎわい、1日6万人もの観光客(かんこうきゃく)が訪(おとず)れていたそうです。

船から鉄道(てつどう)へ

 この通船(つうせん)が2年間で禁止(きんし)されたのは、船が増えて上水がよごれるという理由(りゆう)からです。

 しかし、通船再開(さいかい)の動きは明治16年(1883)ごろまで繰(く)り返(かえ)されました。当時の人たちにとって、通船は荷物を運び生活を豊かにして、近代化(きんだいか)をもたらしてくれるものだったのです。

 運送手段(うんそうしゅだん)を持ちたいという思いは、やがて鉄道を通(とお)す運動(うんどう)へと変わっていきます。その願いが実現し、甲武鉄道(今のJR中央線(ちゅうおうせん)、新宿(しんじゅく)~立川間(たちかわかん)が開通(かいつう)したのは明治22年(1889)でした。

このことによって、近代交通(きんだいこうつう)の夜明(よあ)けが訪(おとず)れ、明治27年(1894)に国分寺駅(こくぶんじえき)~東村山駅(ひがしむらやまえき)の間に川越鉄道(かわごえてつどう)が開通し、小平最初(さいしょ)の駅として小川駅(おがわえき)が設(もう)けられました。


お問合せ先

  • 〒187-0032 
    小平市小川町2-1325
  • 中央図書館
  • 電話:042-345-1246

▲このページの最初へ