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~日本のトイレ発達史~ (1回目/全4回)

更新日: 2019年(平成31年)4月4日  作成部署:環境部 下水道課

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ふれあい下水道館で過去に開催された、下水道の文化にまつわる特別講話会での講話内容を掲載しています。

(1)厠(かわや)の原風景

 野山を歩いていて便意や尿意を感じた時、やむを得ずその場で用を足すという行為(いわゆる野糞や立小便)を行うが、これが屎尿処分の原点でしょう。やがて一定の集落ができてくると、そこいらじゅうでするわけにはいかないので、野外の特定の場所で排泄するようになりました。縄文時代の貝塚から糞石(大便が化石になったもの)が出土することがあります。生活の場に隣接している貝塚やごみ溜めの付近を、トイレ代わりに使っていたのではないかと推察されます。人口密度も低く、自然の分解作用にまかせておいても、環境汚染を引き起こすことはありませんでした。

 このように家の外で用を足すのが、奈良、平安時代ぐらいまでの庶民の生活スタイルでした。国立博物館に『餓鬼草紙』と称される絵巻が伝わっています。絵には老若男女が排便をしている所に伺便餓鬼(しべんがき)が群がっている、平安末期の京の街角が描かれています。排便をしている人の足元をみると、当時の庶民のほとんどが裸足か草履であったにもかかわらず、高価な高下駄を履いています。これは、この場所がすでに糞尿で溢れているため足元や着物を汚さないように履いたものと思われます。住民の暗黙の了解の上で特定の排泄場所、つまりトイレの位置が決められていたのではないでしょうか。

 時代は遡りますが、飛鳥時代の藤原京遺跡で、長さ1.6m、幅50cm、深さ40cmほどの穴から「ちゅう木(糞べら)」が発掘され、土壌中からも寄生虫卵が検出されたことから、この穴はトイレの跡であると認定されました。「土坑式トイレ」といわれるものです。四つの杭跡があり、杭に踏板を渡して用を足していたものと思われます。

 

(2)屎尿を水に流す

 厠の語源は「川屋」です。川の上につくった便をする所という意味です。縄文時代前期の5,500年ほど前の鳥山貝塚(福井県若狭湾の三方五湖)から、「桟橋式トイレ」が発掘されました。桟橋の杭跡の周辺から多くの糞石が出土したことから、桟橋からお尻を突き出して排泄していたと考えられています。水に流すということでは、一種の水洗トイレです。このようなトイレは、今日でも東南アジア地域でみることができます。

[1]奈良時代の水路式トイレ

 奈良時代の貴族の屋敷では、絶えず水が流れている道路側溝に堰を設け、築地塀の下の暗渠から屋敷内に水を引き込み、築地塀に平行した木樋の中に水を流し、この上に屋根をかけてそこで排泄をしていました。大便がそのまま流れ出ていかないように、少し先に穴を設けて沈澱させ、その上澄み水を元の道路側溝に戻していました。道路側溝や沈澱穴の掃除は、雨の降った日の翌日に、囚人たちを使って行っていたそうです。

[2]高野山式トイレ

 平安時代の初期に空海上人が開山した高野山の寺院や民家では、谷川の水を竹筒などで、まず台所や風呂場に配水し、その余り水を便壷のない厠の下に流し、排泄した屎尿をこの水とともに近くの川に流し去っていました。トイレの異名である「高野山」は、ここからきています。しかし、交通が便利になり参詣人も増加した昭和になると、糞塊の堆積や赤痢などの伝染病の多発が社会問題化し、浄化槽や下水道で処理するようになりました。高野山式トイレは、戦後も日本の各地で、少数ではあるが残存していました。

 

(つづく)

 

(講師:下水文化研究会会員 森田 英樹氏)

高野山の水洗便所
 

 

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小平市ふれあい下水道館

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