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玉川上水の歴史

更新日: 2008年(平成20年)12月9日  作成部署:環境部 水と緑と公園課

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学園西町1丁目付近

 玉川上水は、羽村市で多摩川の水を取り入れ、新宿区四谷にあった四谷大木戸まで全長約43キロにわたって掘られた、素掘りの上水路でした。さらに、この先は地下に埋められた石樋や木樋により、江戸城や武家、町家にも配水され、主に飲み水に利用されました。

上水開削の歴史は古く、徳川家康が江戸城へ入府後に、小石川上水を開いています。寛永12年(1635年)三代将軍家光の参勤交代制度により江戸の人口は急激に増加して、それまであった小石川上水を改良した神田上水や赤坂溜池からの上水では飲料水不足となりました。さらに江戸城やその高台一帯にはこれらの水は届かないため、幕府は承応2年(1653年)に玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎で、町人の庄右衛門・清右衛門兄弟がこの工事を請け負いました。4月から工事に入り、わずか8ヶ月後に四谷大木戸までが完成、翌年の6月(承応3年)には虎ノ門までの地下樋の工事も完成したとされています。

 その功績により庄右衛門・清右衛門兄弟は玉川姓を与えられました。しかし、この工事は途中で2度失敗したとの説や、玉川上水よりも先に野火止用水が計画されていたとの説、信綱の家臣安松金右衛門により完成したとの説など多くの説があります。公式な記録が残されていないため正確なことは今のところ分かりません。

 玉川上水は江戸市中の飲み水であるとともに、沿岸の各村々へも分水が認められました。上水完成の翌年に野火止用水への分水、ついで小川、砂川、国分寺分水などが開かれ江戸後期には分水の数は30を超えました。羽村で取水された水量の約半分は途中の村々に分水として流されて、飲み水や田用水として沿岸の村々や多くの新田開発などにも使われました。さらに、この分水は江戸時代後期から明治期にかけては、精米や製粉用の水車の動力源にも使われました。幕末ごろには火薬製造、製紙、醸造などの工業用水にも利用されました。また、明治初期にはわずか2年間ではありますが玉川上水に船が通り、荷物や人が船で運ばれました。上水が汚されるとの理由で中止されましたが、その当時の船溜跡の遺構等が今でも確認することができます。

津田町2丁目付近
学園西町1丁目付近

 水に乏しい小平付近はそれまで人が住めない地でありましたが、玉川上水が開かれたことによって、玉川上水から飲み水として分水が認められる目処がついたことから、明暦2年(1656年)小川九郎兵衛らにより小平市の前身、小川新田開拓の鍬が入れられました。現在の青梅街道の両側に沿って玉川上水からの分水が飲み水として流されました。享保期に新しく開かれた小川、鈴木、野中、大沼田、廻田等の新田も玉川上水からの分水を飲み水や、田用水などに利用しました。

 近代水道の普及が叫ばれ、明治31年(1898年)に淀橋浄水場が完成しました。それまでの上水道としての玉川上水は淀橋浄水場へ水道原水を送る導水路としての役割に変わりました。さらに昭和38年(1963年)東村山浄水場の完成により現在の小平監視所から下流はその役割も終了しました。その後は途中の分水へ送水するためにわずかの水が流されていましたが、昭和46年にはそれも停止しました。

 それ以後、上流部の12キロを除いて空堀の状態が続き、上水の両岸縁は雑木が繁茂し水路は荒れるに任されたままでした。小平市内を始め多くの人々の願により、昭和61年東京都の「清流復活」事業が実施され、小平監視所から杉並区の浅間橋の区間に下水処理水ではありますが流れが甦りました。

 平成15年(2003年)8月、玉川上水は歴史的な土木施設・遺構としての価値が認められ、既に暗渠化された緑道や駅などの一部区間を除いた、約30キロの開渠部分が国の史跡に指定されました。


玉川上水再々発見の会 会員 矢崎氏(津田町在住)執筆

お問合せ先

水と緑と公園課
電話 042-346-9830
FAX 042-346-9513

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