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市史編さんこぼれ話 No.4在りし日の範多農園を追って20年余(2)

更新日: 2009年(平成21年)12月10日  作成部署:教育委員会教育部 図書館

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◇日本の軍国主義化で多大な事業は終止符を、戦火ですべてが灰燼に!

一方、そうした国際情勢をいち早く察知してすべての事業を整理して、日本国籍を復帰し範多範三郎(はんたはんざぶろう)として自給自足的な暮らしで送るために設けた小平の範多(はんた)農園も、時世に抗えず麦やサツマイモ、ジャガイモなどの供出を割り当てられ、ハンター氏の描いた理想の農園とはかけ離れたものになっていった。母屋も昭和20年4月19日10時10分、P51戦闘機の少数編隊が京浜地区上空に襲来して、機銃掃射を開始した。この爆撃によって範多(はんた)農園母屋は焼夷弾の狙い撃ちを受け、茅葺屋根にブスリブスリと食い込んで炸裂した。厚さ60センチ以上もあった茅葺屋根からたちまち火の手が上がり、 家屋全体があっという間に炎に包まれてしまった! ハンター氏と入籍して間もない妻子たちは逃げおおせたものの、母屋と長屋門は全焼してしまった。全く何も持ち出せない状態で、ハンター氏の夢と資産を次ぎ込んだ調度や書画 骨董もことごとく灰になってしまった。英文で手記を綴っていたそうだが、それらも燃えてしまった。前後してくハンター氏は脳軟化症を患い、失意のうちに昭和22年9月24日この世を去った。ドラマよりドラマティックな生涯であった。

範多(はんた)農園の宅地部分はハンター妻子に相続されたが、赤坂育ちの妻は「農業はしたくない」と売り払い、農地部分はGHQの推し進める農地改革で、敗戦当時農園で耕作に従事していた使用人や元の所有者に払い下げられ細分化して、幻の如く消えてしまった。耕作者は農業を続けることを条件に農地を払い下げられたが、数年後には引き揚げ者住宅用地として売り払われてしまった。またタナボタの人や割りを食った人の間で反目があり、互いに範多(はんた)農園のことには口をつぐんで歴史の谷間に長く埋もれてきたようだ。

◇範多(はんた)農園とハンター氏をめぐるロマンとミステリーは今も

なお、大岡越前守屋敷にあったと伝えられる白壁の蔵のルーツは現在の大岡家当主にも問い合わせたが、真偽は定かではない。ただ、この蔵は麻布宮村町のハンター氏の別宅に移築されるまでも、あちこち転々としたようで、“妾蔵”とか“さすらいの蔵”と呼ばれてミステリアスを秘めた蔵のまま、日本植物防疫協会の敷地で『展示蔵』として公開もされている。

また、範多(はんた)姓はハンス・ハンターの長兄竜太郎が係累の絶えた元与力の家柄・範多(はんた)家を継承する手続きを経て名乗ることになったものである。ハンター氏に関する資料は殆ど火災で失われており、直接関わった人もほとんど物故していただけに、古山さんや伊藤さんから極力、聞き取りを重ねてきた。伊藤さんには覚書を作成してもらったが、一方で「本当かナ?誇張や記憶違いがあるかもしれない」と疑う癖もあり、ハンター氏の事業跡なども訪ねて確かめてきた。鉱山跡は予想以上に大規模で山奥の足の不便な場所ばかりだった。

今年2009年9月24日、中禅寺湖畔西六番別荘跡で二回目のハンス・ハンターを偲ぶ会が開かれ参加してきた。地元の有志「中宮祠・中禅寺 百年を語る会」によって2008年からハンス・ハンターの命日に開かれることになり、今回はハンス・ハンターが愛してやまなかったスコッチウィスキーをテーマに、ハンター氏も操業を応援していたニッカウヰスキーの栃木工場長や、スコッチウィスキーの醸造所巡りもしたことがある足利銀行日光支店長のトーク、手回し蓄音器によるスコットランドの調べ、蘭の献花などが行われ、ハンター氏の存在と日本の近代化に果たした業績が見直されていることを実感してきた。


※「ハンス・ハンター」についてより詳しく知りたい方は、中込さんが研究した成果が下記のホームページモグラ通信の「在りし日の範多農園を訪ねて」に掲載されていますのでご覧ください。


モグラ通信HPアドレス:http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/


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