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市史編さんこぼれ話 No.7「小平に学校プールができるまで」(1)

更新日: 2010年(平成22年)4月19日  作成部署:教育委員会教育部 図書館

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―PTA新聞を手掛りに―

はじめに

三年前、母校である小平第二小学校(以下、二小)のPTA広報委員になった。PTA室の棚を整理していると、奥にうずたかく積まれた書類の山。ひっぱり出してみると、歴代のPTA新聞『ひまわり』(1965年6月創刊)だった。

創刊期の興味深いことといったら! 今のPTA新聞と違い、とにかく字数が多い。時々の問題をとりあげては、忌憚なく個々の考えを投稿している。言葉遣いや価値観の違いも多々感じた。なにより切羽詰った状況をどうにか動かそうという、当時の親たちの気概が紙面を通してひしひしと伝わってきた。

最初に目をひいたのは、「二小にもプールができました」(『ひまわり12号』1970年10月12日)という記事だった。私が二小に入学した1973年、体育館はまだなかったが、プールは既にあった。あのプールはどういう経緯でできたのだろう。

思えば小平には海も泳げるような川もない。その小平で子供たちが抱いたであろう〝泳ぐことへの憧れ〟は、どのように実現していったのか。『ひまわり』の記事、そして卒業生や当時のPTA役員のコメントを参考にしながら、学校プールの設置過程をたどってみたい。

1.学校プールが設置されるまでどこで泳いでいたのか

【灌漑用水池】

小平の小中学校の授業に水泳が登場するのは、1959(昭和34)年のことである。小川六番南側(現在の小川2丁目1177番地 たかの街道沿い)にあった灌漑用の水溜めを、学校プールとして利用することになった。この水溜めは1952年に畑地用の実験施設として造られたものである(『小平町報』1952年8月15日)。1959年、小平町教育委員会は同水利組合とタイアップして、この施設を25メートルの町営プールとして利用することを決める。夏季二ヶ月間、小中学校(三小だけは警察学校のプールを利用)やスポーツ少年団、町の水泳教室などに開放された。(『小平町報』1960年7月1日/小平市体育協会『四〇年のあゆみ』1998年、93頁/『読売新聞(三多摩読売)』1959年6月17日)。

夏の強い日ざしのなか、二小の子供たちは水着とタオルを抱えて、このプールまで歩いた。泳ぐ前にくたびれる、往復に時間がかかる、低学年生には遠くて行けない、授業回数が少ない、水泳を指導できる教師がほとんどいないからバタ足の練習しかできない、更衣室が狭いなど多くの問題があった(1962年・64年卒業生談)。

なお、この灌漑用水池は武蔵野西線敷設工事で取り壊しになる1968年の夏まで、町営プールとして利用された。

【臨海学校】

戦時中から途絶えていた夏季校外学習は、小平町教育委員会が設置されようとしていた1952年に復活した(『小平市三〇年史』1994年、507頁)。当時は行き先も実施学年も、各学校の裁量で決められていたようだ。二小については、校外学習を全学年で実施したことが記録されている。行き先は低学年が入間川、中学年が逗子海岸、五年生が葉山海岸、六年生が勝浦海岸で、水辺が主流だったようだ(『小平町報』1952年8月15日)。二小では2008年度の開校八○周年記念史誌作成のために、卒業生に対するアンケート調査を広く実施した。このアンケートで、校外学習が再開する1952年より以前の卒業生数名も、伊豆や大磯への臨海学校の思い出を書き記している(1949年・51年卒業生アンケート)。このことから1952年以前にも、各学校単位で校外学習が行われていたことが推測される。

親は農業で忙しく、今のように家族でレジャーに行けるような時代ではなかった。友達と宿泊できる校外学習は、当時の子供たちにとって何よりの心踊るイベントであったろうし、実際、小学校生活の一番の思い出だと話される方が多い。「海も女性の海水着も学校の校外学習で初めて見たって、今でも話に出てくるんですよ」(1953年卒業生談)というコメントにも頷ける。

翌1953年、教育委員会は高学年を対象とした夏季校外学習を調整するようになった。

臨海学校は、翌々年の1954(昭和29)年に開設された。行き先は神奈川県大磯海岸だった。新築されたばかりの町営幼稚園を借りて宿泊した。児童数が増え、海水浴期間中に各学校を割り当てることができなくなったため、1961年から小学校の行き先を千葉県安房郡の富浦海岸に変更し(『小平町報』1961年7月20日)、1964年からは千葉県富山町の岩井海岸に変更した。「臨海学校はとてもよかった。それまで海に縁がなかったが、海がとても好きになった。小平のダンゴムシや蜘蛛のかわりに、いたるところで大小の陸ガニを見て驚いた」と岩井海岸の臨海学校に参加した卒業生は当時を振り返っている(1969年卒業生アンケート)。

そのように子供たちが楽しみにしていた臨海学校は、1969年に中止となる。全国の主な海水浴場は大腸菌や廃油などで汚れ、海水浴に不適当であると前年末に厚生省が発表したためである。その他、往復の交通渋滞や、水泳を指導できる教師が少なく、安全確保が問題になったことも中止の原因に挙げられる(『朝日新聞』1969年7月18日/1970年6月17日)。この年から小平市の夏季校外学習は六年生のみを対象とし、新設された小平八ヶ岳山荘で行う林間学校に一本化された。

【身近な水】

さて、学校プールができるまで、小平の子供たちにとって〝身近な水〟はどこだったのだろう。それはなんといっても自宅近くの用水だった。泳げるほどではなかったにせよ、勝手に堰きとめて、水嵩を増やしては水遊びをした思い出のある方は多い。

小平の水といえば、玉川上水を思いうかべる方も多いかもしれない。しかし、玉川上水は1965年に通水が止められるまで、現在とはかなり様子が違っていた。水が満々としており、流れが非常に速く、柵も整備されていなかった(『読売新聞』1967年6月27日)。このため事故が絶えず、子供たちは常々「大川には近づくな」と注意されていた。玉川上水は残念ながら、子供たちにとって身近な水とは言えなかったようだ。

水場とはいえないが、熊谷組グラウンド(現在の福祉会館南側窪地)は雨が降るたび、まるで湖のようになった。実際に子供たちが泳ぎに来ていたという。

また、小平からは若干距離があるが、多摩湖近くの「たっちゃん池」こと宅部(やけべ)池(いけ)や、多摩川にも子供たちは自転車で通っていたようだ。多摩川には遊泳可能スポットがあり、1960年当時の京王多摩川駅付近の河川敷は、週末にもなると2,000人の人出で賑わったそうだ(『読売新聞(武蔵野版)』1960年7月4日)。

【近隣のプール施設】

では、近隣にプール施設はあったのだろうか。1923(大正12)年と大変早い時期に誕生し、50年間以上利用された小金井の貫井プール(貫井神社前・全長50メートル)には、小平住民にも馴染みのある方が多い。湧水を利用しているため、非常に水が冷たかったという(小金井市体育協会『一〇年のあゆみ 法人化一〇周年』1986年)。その他、小金井の中川園のプール(前原小学校と上宮大澤(かみみやおおさわ)神社の間あたり)、東伏見の早稲田大学のプール、一橋大学のプール、西武園プールなども利用されていたようだ。また民間企業の施設を地域に開放していたものとして、ブリヂストンタイヤ株式会社東京工場のプールや、東京ガス株式会社のプールが挙げられる。

1960年代半ばになると、一般開放されていた丸井の花小金井研修センター併設のプールや立川の柴崎町のプールにも、子供たちは友達と自転車やバスで出かけた。往き帰りの安全を心配する親たちは、学校プールの一日も早い設置を望んだ(『ひまわり二号』1968年12月16日)。1968年の二小開校四〇周年記念式典では、「雨が降っても体育のできる体育館や、いつでも泳げるプールがあったらどんなにすばらしいでしょう」と六年生児童が心情を発表しており、子供たちもいかに学校プールや体育館に憧れていたかがわかる(『ひまわり3号』1968年10月5日)。

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小平市小川町2-1325

中央図書館

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