小平市役所
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1962(昭和37)年、小平に初めて学校プールが設置された。ブリヂストンタイヤ株式会社東京工場が寄贈した六小のプールである。小平では群を抜いて、早い時期に設置された学校プールである。全ての学校にプールが設置されたのは、ずっと後のことだった(下表参照)。
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校名 |
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1962年 | 六小 |
1965年 | 三中 |
1966年 | 四中 |
1967年 | 一中 |
1968年 | 七小 |
1969年 | 二中・一小・四小・五小・八小・十小・十一小・十二小 |
1970年 | 二小・九小・十三小・十四小・十五小 |
1971年 | 五中・六中 |
1972年 | 三小 |
1973年 | 小川東小 |
1974年 | 花小金井小 |
1976年 | 鈴木小 |
1977年 | 学園東小 |
1982年 | 上宿小 |
各学校は当面、先に建設された近隣の学校プールを借りて水泳の授業を行った。一小は六小のプールを、二小は三中プール(後に一中プール)を、三小は四中のプールを使用した。三中のプールが完成した時には、共同使用する各学校(二小・五小・八小・九小・三中)の代表児童が初泳ぎをした(『小平市報』1965年8月20日)。
小平がこのように不便な状況下にあった頃、都心の状況はどうだったのだろう。1967(昭和42)年5月の東京都教育委員会の資料によると、特別区の小学校プール設置率が84%であるのに対し、三多摩地区では51%となっている(東京都教育委員会『三多摩地域における小中学校施設の現状と問題点』1968、11頁)。この時期、特別区の学校では戦前から既に設置されていたプールの改修や、屋上へのプール移設工事が行われていたところさえあった。一方、小平でプールが設置されていたのは六小・三中・四中の三校のみで、市が設置した学校プールとなると実質、中学校二校のみだった(表参照)。また、三多摩地区のなかでも立川・昭島・八王子などに較べ、小平はかなりたち遅れていた(『読売新聞(三多摩版)』1960年5月31日)。
1960年代前半、小平を含む三多摩地域は急激な宅地化によって人口が爆発的に増加した。その変化があまりに急激であったため、生活に必要なあらゆるものが追いつかなかった。上下水道の整備、学校施設の整備はこうした三多摩格差の象徴的な問題だった。
学校施設に関しては、教室の不足が何より深刻だった。二部授業を避けるための校舎増築、校庭の拡張、そしてプールの設置についても陳情と請願が継続的に行われた(『ひまわり7号』1969年12月8日/『ひまわり8号』1970年2月10日)。こうした教育環境の整備に関する陳情活動は、当時のPTA活動で最も重要な活動であり、PTAは学校と緊密な連携をとりながら精力的に行政に働きかけた。併せて各学校PTAから小平PTA連合会へ、小平PTA連合会から多摩PTA連合会へ、そして都議会へ陳情されるという包括的な話し合いも同時に進められた(『ひまわり8号』1970年2月10日)。しかし、予算のないなか、最優先課題が校舎増築であることは誰の目にも明らかであり、プール建設は夢のまた夢と思われていた。
ところが状況は急変した。美濃部都政が1969(昭和44)年度中に、東京のすべての小中学校にプールを設置するという方針を打ち出したのである。これによって、それからの二年間でプール建設は一気に進められた。一小・四小・五小・八小・十一小・十二小は、この時に都負担で設置され、一中・二中・九小・十小は失業対策事業(都負担)として建設が進んだ。他の小学校も市負担で順次建設された。一九七四年以降に設置された学校プールについては、かねてから保護者の要望のあった低学年用の浅いプールが併設された(『教育委員会月報73号』1976年1月31日)。
臨海学校が中止になったのが1969年であるから、小平の学校プールはちょうど臨海学校と入れ替わるタイミングで相次いで建設されたことになる。また1971(昭和46)年には萩山市営プールも完成した。同年、学区域の児童生徒を対象とした夏休み中の学校プールの開放(教育委員会主催)も実現し、子供たちの〝水への憧れ″は徐々に満たされていった(『ひまわり16号』1971年10月2日/『小平市報』1971年8月5日/『教育委員会月報34号』1971年7月23日)。