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市報こだいら:2022年10月1日号 6面(抜粋記事)

更新日: 2022年(令和4年)10月1日  作成部署:企画政策部 秘書広報課

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市報こだいら6面の記事を抜粋して掲載します。

地図でたどる小平

七つの村・小平のはじまり

現在の小平市域は、江戸時代前期と中期(享保期)の開発によって成立した村々からなっています。
近世以降に開発された村を、一般に「新田村」と呼びますが、この新田村7か村のみで市域が構成されているという点は、近隣の自治体でもあまり例がなく、小平の特徴といえます。

村ができるまで

戦国時代までの武蔵野は、付近に大きな川がなく、地下水位も低かったため、飲料水の入手が困難で、人が定住できる場所ではありませんでした。
徳川家康が江戸に幕府を開くと、江戸は急速に発展します。
武蔵野には、江戸に物資を運ぶ道路や水を引くための上水道が整備されました。
承応3年(1654)には、羽村から江戸まで多摩川の水を引いた玉川上水が開通し、翌年に野火止用水が完成して、武蔵野の新田開発が進められます。

市で最も古い小川村

小川村は、明暦2年(1656)に、小川九郎兵衛の主導によりひらかれます。
九郎兵衛は石灰伝馬継など往来の人馬を助けるために自費をもって新田開発を願い出ます。
現小平市域では最も古い村です。

小川分水に続く取水口

小川分水の開削は、開発願いが許可されたのち、最初に取り組まれた工事とみられます。
小川九郎兵衛は、これに私費を投じて尽力したとされます。
市域北側の取水口は、明治時代の初めに新堀用水にまとめられました。

小川新田

小川新田の開発は、享保7年(1722)に、小川弥市と小川村が願い出たことにはじまります。
「東は小川村境から一本榎まで、南北は玉川上水際から山口領江戸道まで開発したい」といった内容の願書を差し出します。
同9年に許可され、双方に開発地が割り渡されました。

鈴木新田

鈴木新田は、貫井村(現小金井市)の名主鈴木利左衛門と百姓が開発を何度も試み、享保9年(1724)ようやく許可されました。
その後も一時、野中新田に含まれたことがありました。
玉川上水に架かる貫井橋の名称は、開発当初、利左衛門が貫井村から通った際に利用したことから付けられたとされています。

大沼田新田

大沼田新田は、大岱村(現東村山市)の當麻弥左衛門らが開発を主導した村です。
地割図からは東西を貫く「大岱新田南通り」(現東京街道)や所沢道など、街道に沿って地割されていることがわかります。

18世紀中頃より、武蔵野の村々では河川・用水路に多くの水車がしかけられ、生産した穀物の製粉に用いられました。
右の絵図には、各所に「〇〇水車」という記載があり、鈴木新田・大沼田新田を通る分水路には、いくつもの水車がしかけられていたようです。

野中新田善左衛門組・野中新田与右衛門組

野中新田は、享保期に成立した武蔵野新田のうち、開発当初は最も面積の広い村でした。
享保17年(1732)10月には、与右衛門・善左衛門・六左衛門・利左衛門の4名に名主が命じられ、野中新田与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組(現国分寺市)、鈴木新田の4つの組(村)が成立しました。

廻り田新田

廻り田村(現東村山市)を本村とする新田で、他の村に比べて開発に関わる時期は若干遅く、家数も江戸時代後期には十五軒前後と、7か村では最も面積が狭い村でした。

関連リンク

2022年10月1日号 7面

2022年10月1日号 目次

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