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齋藤素巖とはこんな人

更新日: 2007年(平成19年)9月27日  作成部署:地域振興部 文化スポーツ課

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近代彫刻の旗手「齋藤素巖」

 齋藤素巖は、亡くなるまでの31年間を小平市学園東町に居を構え、芸術活動を行った、小平市ゆかりの彫刻家です。

 没後、市は、遺族から寄贈された石こう原型を保存するとともに、ブロンズ鋳造をしてきました。昨秋、これらの作品の展覧会を中央公民館と武蔵野美術大学の2会場で同時開催しました。素巖が創設した「構造社」の展覧会も全国各地で行われています。

 素巖は、今、最も熱い視線を集めている彫刻家です。

齋藤素巖(さいとう・そがん) (1889~1974)

齋藤素巖の写真

 齋藤素巖は、大正元年から文展などに作品を発表し、数々の受賞を重ねる一方、わが国初の本格的な彫塑(ちょうそ)専門団体「構造社」を設立した日本近代を代表する彫刻家の一人です。

 昭和5年に兜町株式取引所ビルに設置された「商業・農業・工業・交通」(昭和63年のビル解体とともに取り壊される)のほか、兵庫県湊川(みなとがわ)公園「大楠公像(だいなんこうぞう)」、東京赤坂の高橋公園「高橋是清翁像(たかはしこれきよおうぞう)」が代表作としてよく知られています。

 小平市(学園東町)には昭和18年に転居し、昭和49年に亡くなるまで、この地で制作活動を行いました。

 小平市では、素巖の没後、遺族から寄贈された240点を超える石こう原型の保存に努めるとともに、およそ50点のブロンズ鋳造(ちゅうぞう)を行ってきました。ブロンズ作品の一部は小平市役所南側の芝生広場(「荷重(におも)」)や、ルネこだいら、中央図書館玄関壁面などに設置されていますが、小平グリーンロードの小平駅から花小金井駅間にも16基17作品が設置され、「齋藤素巖・彫刻の小径」として行き交う人々の目を楽しませています。

 また、市では、平成17年、武蔵野美術大学と共同で、石こう原型の初めての学術的な調査を行いました。この成果は、武蔵野美術大学(石こう原型の展示)と中央公民館(ブロンズ作品の展示)の2つの展覧会で紹介され、連日、多くの方にご覧いただきました。また、「構造社」の展覧会「構造社昭和初期彫刻の鬼才(きさい)たち」展も札幌芸術の森美術館(北海道)、松戸市立博物館(千葉県)で開催されました。

齋藤素巖 略年譜

明治22年

 10月16日 父知三、母かねの三男として東京市牛込区市ヶ谷富久町で生まれる。本名知雄(ともお)

明治35年

 4月 府立第四中学校(現戸山高校)に入学

明治40年

 3月 府立第四中学校を卒業4月 東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画科予備科に入学(9月本科へ進む)

明治45年

 3月 東京美術学校西洋画科を卒業

大正元年

 9月 島根県杵築中学校教員となる

大正2年

 9月 彫塑を学ぶため、イギリスに渡る

大正5年

 1月 帰国。本郷菊坂町に落ち着き、その後、田端105番地に移る

大正6年

 第11回文展に「秋」(レリーフ)を出品し、初入選する

大正7年

 第12回文展に「敗残」を出品し、特選となる

大正15年

 日名子実三(ひなこじつぞう)とともに「構造社」を結成

昭和5年

 兜町株式取引所ビルに「商業・農業・工業・交通」を各2体、計8体を設置

昭和12年

 帝国芸術院会員となる

昭和18年

 現在の小平市学園東町に転居

昭和28年

 第9回日展に「自然科学者」を出品

昭和29年

 日展常務理事に就任

昭和31年

 第12回日展に「七十近し」を出品

昭和33年

 第1回新日展に「珠-天馬と遊ぶ-」を出品

昭和35年

 第3回新日展に「沼童の一家」を出品

昭和37年

 第5回新日展に「競技への招待」を出品日本彫塑家倶楽部を日本彫塑会に改称。この年まで会長の席にあった

昭和47年

 日本彫塑会名誉副会長に就任

昭和49年

 2月2日 死去(満84歳)

お問合せ先

〒187-8701 
小平市小川町2-1333 市役所1階

文化スポーツ課平櫛田中彫刻美術館担当

電話:042-346-9843

FAX:042-346-9575

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