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市史編さんこぼれ話No.12 近藤勇の母「ゑい」と兄「惣兵衛」(2)

更新日: 2010年(平成22年)11月9日  作成部署:教育委員会教育部 図書館

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第2回 近藤勇の兄「惣兵衛」

今回は、近藤勇の実兄惣兵衛と小平との関わりから、江戸時代の村人の様子を見ていきたいと思います。


兄「惣兵衛」

ゑいの授かった3人の男子のうち、長男音五郎は宮川家の跡取りとなり、三男勝五郎は近藤勇となって天然理心流を継承します。では、もう1人の男子である粂次郎はどうなったのでしょう。廻り田新田山田家文書には、粂次郎の足跡が残されています。


一つの縁談

安政元年2月(1854)、小平市域の野中新田善左衛門組と上石原村との間で一つの縁談がまとまります。野中新田善左衛門組佐藤家のふくの元へ婿入りしてきたのは、近藤勇の兄宮川粂次郎でした。仲介したのは母ゑいの実家である山田家の現当主庄兵衛とその母とよ(かね)でした。とよはゑいの弟栄蔵(庄兵衛)の妻にあたります。上石原村隣村大沢村の百姓弥五郎と野中新田善左衛門組年寄藤右衛門が媒酌を勤めました。

佐藤家は「油屋佐藤」「油屋惣兵衛」と呼ばれる市域でも有数の在郷商人で、その持ち高は明治2年(1869)時点で79石余(野中新田善左衛門組総計369石余、同村2位は16石余)で、婚姻が成立した安政元年段階では150石余にものぼっていました。

これだけの家に婿入りするため、宮川家は100両もの持参金を用意し、名前も粂次郎から惣(宗)兵衛へと改めました。養子を迎えた佐藤家にも事情があり、家政を切り盛りしていたのは先々代宗右衛門の妻(後家)なおで、夫と息子(先代宗右衛門)に先立たれたなおは、息子宗右衛門の妻(後家)ふくに婿を迎えざるを得なかったのでした。

こうして、母の実家の取りなしで佐藤家を継いだ惣兵衛は、115石(150石のうち35石は隠居免として養母なおが継ぐ)の身代からなる家業の農間質物油絞り糠灰等商渡世に就き、翌安政2年2月にはふくとの間に女子を授かるなど、順調な婚姻生活を送っていました。

しかし、結婚からわずか1年、佐藤家の巨大な身代をめぐって、泥沼の離縁騒動が持ち上がるのです。


離縁騒動の発生

安政2年11月に惣兵衛が(おそらく支配代官江川太郎左衛門役所に宛てて)提出した嘆願書と、翌3年正月と2月に庄兵衛と実父宮川源治郎が勘定奉行所に出した嘆願書から、その経緯と惣兵衛側の言い分をたどってみましょう。

トラブルの元は婿入り以前にさかのぼります。佐藤家は、惣兵衛が婿入りするより前の嘉永6年(1853)、隣村野中新田六左衛門組名主の野中六左衛門に松林を150両で売却しました。代金は同年8月に完済する約束で立木の松を切り払ったところ、代金の支払いが無かったため、惣兵衛が家督を相続して以降、厳しく催促をした結果、安政2年正月になって漸く80両を支払い、残りも早々に入金するとの約束をしていました。

そもそも六左衛門は、自分がふくの伯父にあたり、また、なおが後家であることをいいことに代金を踏み倒すつもりであったところ、惣兵衛が家督を相続して厳しく催促を行ったことを恨んでいたというのです。

六左衛門はふくやなおに対して、惣兵衛が「養家相続金多分遣込、下質より願置候質品窃ニ持出し、下質物に馴合又質ニ差入、養母手許金欺出し無益ニ遣捨、身上向不如意ニいたし相続方覚束なく」と、惣兵衛が資産を浪費するのみならず、家業である質物や、養母の資産にまで手を出しているとの悪口を吹き込んだといいます。

また佐藤家分家の源兵衛(八王子千人同心)や組合の伝蔵、野中新田善左衛門組の年寄藤右衛門を仲間に引き入れて、惣兵衛を離縁させ、六左衛門の息子の音三郎をその後の婿にすることを企んでいると言っています。そのため、ふくを六左衛門方へ囲い置き、惣兵衛の実父源治郎へ惣兵衛を引き取るよう掛け合ったり、藤右衛門が願い人になって、関東取締出役に対して惣兵衛の悪行を訴え、離縁の許可を願い出ました。


泥沼化する騒動

惣兵衛は8月18日に内藤新宿に出頭を命じられ取り調べを受けましたが、事実無根であることが判明し、「家内熟和」するよう言われて帰村します。

しかし、今度は支配代官江川太郎左衛門に対して、養母なおが願い人になって同様の訴えをしたため、再び江戸に出て厳重に吟味を受けます。この吟味中、惣兵衛は重病にかかってしまっため、扱人の本郷村源次郎が間に入って庄兵衛を説得し、事ここに至っては離縁も止むを得ないため、持参金100両と、家督相続の間の趣意金500両、その他所持品などを残らず受け取って離縁することになります。

惣兵衛は一旦庄兵衛の家で預かりとなり、庄兵衛家から実家の宮川家へ戻るとの内済が決まり、親類一同も承諾・加判の証文を受け取りました。惣兵衛はその後も暫く療養し、全快の上で事の経緯を把握したうえで、やはり自分にはやましいところはないので復縁したいと訴えます。

子供もいるとのことで、養母なおも復縁を承諾し、隣村鈴木新田組頭の織右衛門に仲介を依頼しますが、藤右衛門と源兵衛は承知しないどころか、持参金や所持品の引き渡しまで妨害し、佐藤家の財産を「宗兵衛を離別致させ、家事向等勝手儘ニ取計べく巧相違これなく」であるといいます。

嘆願書は、このままでは惣兵衛の身分が立たないので、以上の経緯を聞き届け、相手方の者を召し出し吟味した上で、これまで通り養家佐藤家を相続できるようにするか、内済の約束を履行するかを求めて締めくくられています。


騒動の決着と惣兵衛の「風と出」

以上は惣兵衛側から見た事の経緯ですので、必ずしも真実を伝えているとは限りません。六左衛門や藤右衛門、なおの側の主張は、史料が残されていませんので不明ですが、以下に見る騒動の決着に併せて取り交わされた議定からは、惣兵衛の側にも問題があったことを伺わせます。

安政3年2月、上飛田給村源七と四谷伝馬町一丁目源治郎を取扱人として、騒動は内済することになります。ここで取り交わされた議定では、騒動の発端について「同人(惣兵衛)義風と家出いたし候より事起り種々手違ニ相成候」「同人家出致し候より親類不和之基ニ相成候」と、惣兵衛が家督を相続して家業を継ぎ、妻子共ども仲睦まじくあった一方、家出癖のあったことが騒動の原因とされています。

この「風と家出」というのは、「風と出」や「不斗出」等とも言われる、文字通りふっといなくなってしまうことを指します。欠落や出奔とも同義で用いられますが、長期に及べば「帳外」として、村の戸籍から外されてしまいます。「風と出」の理由には、年貢不納などの経済的理由、社寺参詣など宗教的理由、特に理由はなく気分的に、などさまざまな理由があり、近世後期の農村社会の移動性を示す事例として研究されています。惣兵衛の風と出の理由や実態は不明ですが、惣兵衛のこうした行状が不和の一因となっていたようです。

議定では、離縁のうえ趣意金をなおより惣兵衛実父源次郎へ支払い、惣兵衛身分は源次郎方へ戻すことが約束され、この離縁騒動は決着しました。

以上の経緯は、小平市立図書館編『小平市史料集第一七集 村の生活3 事件・事故・訴訟』に収録された史料877~883を紹介したものです。この史料集には、江戸時代の小平の人々に巻き起こった様々な騒動が収録されていますので、一度手にとって、身近な地域で150年前、250年前におこった事件に思いを馳せてみてください。

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