小平市役所
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令和6年7月3日に流通開始となる新5000円札の肖像は津田梅子さんです。
小平市にゆかりのある津田梅子さんの功績を紹介します。
12月3日(新暦(注)12月31日)、江戸牛込南御徒町(今の東京都新宿区内)に父、津田仙と、母、初子の次女として生まれる。
(注)日本では1872(明治5)年12月31日までは旧暦が使われていました。
1月、仙、幕府の使節団に加わり、アメリカに渡る。
6月、仙、帰国。
仙、東京築地の「ホテル館」に勤める。
9月、仙、「ホテル館」を辞め、北海道開拓使の嘱託となる。都内の農園でアスパラガス、イチゴなどの栽培を始める。
12月、梅子、北海道開拓使が派遣する五人の女子留学生の一人として、岩倉具視、伊藤博文ら政府の使節団と共にアメリカに出発。
1月、梅子、サンフランシスコに到着する。
2月、梅子、ワシントンに到着し、ランマン夫妻の家に預けられる。
11月、梅子、スティブンソン・セミナリーに入学。
7月、梅子、キリスト教の洗礼を受ける。
6月、梅子、学芸会で詩を暗唱し、地元の新聞に載る。
6月、梅子、スティブンソン・セミナリーを卒業。
9月、梅子、ワシントンのアーチャー・インスティチュート(今の高校にあたる女学校)に入学する。
春頃、北海道開拓使より、秋までに帰国の用意をするよう知らせが来たが、アーチャー・インスティチュートの卒業が翌年であるため、帰国を1年延期する許可を得る。
6月、梅子、アーチャー・インスティチュートを卒業する。
11月、梅子、帰国。
10年以上の留学を経て、梅子は日本語や日本の習慣を忘れていました。帰国後間もない時期に、教会から帰宅する人力車の中で忘れ物に気づきましたが、教会に戻ってほしいと車夫に日本語で伝えられず困っていたところ、知り合いのアメリカ人女性が通りかかり、日本語の通訳をお願いしたというエピソードがあります。
男性の留学生には、帰国後、大学教授などの重要な役職が用意されていましたが、女性の留学生には留学で得た知識を生かすような仕事は用意されていませんでした。
春頃、梅子、1か月半の契約で、築地の海岸女学校(青山学院の源流の一つ)で英語を教える。
11月、伊藤博文と再会。下田歌子とも会う。その後、伊藤博文の求めにより、伊藤家に移り住んで、妻や子に英語を教える。
2月、下田歌子が開いた桃夭女塾(とうようじょじゅく)で英語を教え、下田歌子からは国語や習字などを習う。
6月、伊藤家を出て、自宅に戻る。
9月、伊藤博文の推薦で、華族女学校(今の学習院女子大学)教授補に就任する。
7月、赤坂丹後町に家を借り、従姉と住む。
6月、華族女学校の教師としてアリス・ベーコン来日(華族女学校の外国人教師に適切な人物として、梅子が留学時に知り合ったアリス・ベーコンを推薦した)。その後、アリス・ベーコンと麹町紀尾井町に住む。
7月、二年間の予定でアメリカに二度目の留学をする。
9月、ブリンマー大学に入学し、生物学を専攻する。のちに女子英学塾の教授となるアナ・ハーツホンと出会う。
ハンプトンにあるアリス・ベーコン宅で夏を過ごし、私塾創設の希望を打ち明ける。
1月から半年間、ニューヨーク州にある師範学校で教授法について学ぶ。
6月、留学が1年間延長となる。
8月、日本の女性たちが留学の機会を持てるようにするために「日本婦人米国奨学金」を設立することを目指し、各地で講演を行い、募金を集める。
冬頃、生物学でも良い成績を収めており、1892年にかけて、教授との共同研究により蛙の卵の発生についての論文を書く。
8月、帰国。
2月、父を亡くして落ち込んでいるアナ・ハーツホンとともに葉山に旅行し、私塾創設の計画を打ち明ける。
5月、女子高等師範学校(今のお茶の水女子大学)の教授を兼任する。
6月、万国婦人連合大会に日本婦人代表として出席するため、アメリカに向かう。
一度目の留学生活を過ごしたランマン家を訪問する。アメリカで、ヘレン・ケラーに会う。
11月、イギリスの女性たちの招待を受け、イギリスに向かう。華族女学校は1899年9月まで休職となる。
1月、ブリンマー大学の旧友に招かれ、約2週間パリに滞在する。
1月末、ロンドンに戻り、オックスフォード大学の聴講生となる。
3月、当時80歳に近い年齢となっていたナイチンゲールに会う。
4月末、アメリカに戻る。
7月、帰国。
7月、華族女学校及び女子高等師範学校の教授を辞任する。女子英学塾(今の津田塾大学)を創立し、塾長となる。最初の校舎は麴町区一番町(今の千代田区三番町)にあった。
梅子が設立した「日本婦人米国奨学金」を利用して、1976年までに25名の女性が留学しました。その中には、女子英学塾2代目の塾長となった星野あいも含まれています。
二度目の留学では生物学を学び、帰国する際には、ブリンマー大学から、アメリカに留まってさらに研究を続けてはどうかという申し出がありました。梅子は日本女性の高等教育に力を尽くすことが大事だと考え、申し出を断り、帰国しました。
9月、女子英学塾入学試験。入学者10名。
3月、女子英学塾の生徒数が30名を超える。
10月頃、病気のため、休むことが増える。体調が良い時には自宅で授業を行う。
静養と視察を兼ね、アメリカに向かう。
9月、ルーズヴェルト大統領に会う。
10月、イタリアに向かう。
1月、帰国。
4月、父津田仙、死去(享年71歳)。
8月、母津田初子、死去(享年67歳)。
春頃から体調不良を感じるようになる。女子英学塾の校医は糖尿病と診断する。
5月、入院。
7月、退院し、鎌倉の別荘に滞在する。
10月、再入院。この後、入退院を繰り返す。
11月、鎌倉と東京を往復しながら、塾長の仕事を続ける。
2月、8月、脳出血を起こす。
5月、女子英学塾を訪れる。最後の訪問となる。
8月16日、鎌倉の別荘にて逝去(享年64歳)。
10月、小平市の新校舎(今の津田塾大学)に墓地を改葬する。
女子英学塾の開校にあたり、東京以外にも、横浜、広島、群馬、鹿児島など全国から入学者がいました。入学式で梅子は、「本当の教育は立派な校舎や設備がなくてもできる。教師の資格と熱意、学生の研究心が大切である」、「真の教育は学生の個性に従って、別々の取り扱いをしなければならず、少人数での教育がよい」、「婦人らしい婦人であって、十分知識も得られるし、男子の学び得る程度の実力を養うこともできる」と日本語で式辞を述べています。
1898(明治31)年に万国婦人連合大会に日本婦人代表として出席した際、津田梅子さんは、今後、女性の教育が広まり、女性の地位が高まるにつれて、全世界の女性が男性と対等の資格で、よき協力者となる時代が来るだろうと述べています。
その後、津田梅子さんは女性たちが仕事に就き、自立することを目指し、そのために女性の高等教育の必要性を感じ、女子英学塾を開きます。
女子英学塾の入学式の式辞では、「婦人らしい婦人であって、十分知識も得られるし、男子の学び得る程度の実力を養うこともできる」と述べています。当時の女性は男性よりも低い地位に置かれていましたが、津田梅子さんは女性も男性と同じように活躍できると考えていたことがわかります。
小平市では、「だれもが、性別による無意識の思い込みにとらわれることなく、共につながりを持ちながら認めあい、自分らしくいきいきとその個性と能力を十分に発揮できる男女共同参画社会」の実現のため、「小平アクティブプラン21(第四次小平市男女共同参画推進計画)」を策定しています。また、計画の推進のため『男女共同参画宣言都市こだいら』を宣言し、男女共同参画社会の実現へ向けて取り組んでいます。
財務省ホームページ(外部リンク)によると、近年のお札の改刷では、以下の観点で明治以降の人物から肖像が選ばれています。
(1)偽造防止の観点から、なるべく精密な写真を入手できること
(2)肖像彫刻の観点からみて、品格のある紙幣にふさわしい肖像であること
(3)肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていること
津田梅子さんは、女性の教育に大きく貢献した人物として、上記の観点に一致していることから選ばれたと思われます。
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