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市報こだいら:2024年10月1日号 6面(抜粋記事)

更新日: 2024年(令和6年)10月1日  作成部署:企画政策部 秘書広報課

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市報こだいら6面の記事を抜粋して掲載します。

鈴木遺跡発掘50周年記念

小平は水が乏しい場所だったので、大昔の人々の生活や活動の跡が残されている遺跡が少ないところです。
今からちょうど50年前の1974年、石神井川の源流にあたる鈴木小学校の周辺で鈴木遺跡の発掘調査がはじまりました。
今回はどのようにして発掘調査が行われることになったのか、ぶるべーと学芸員と一緒にみていきましょう。
詳しくは、小平市ホームページ(ID72847)からもご覧になれます。

問合せ先
文化スポーツ課 電話042(346)9501

鈴木遺跡が発掘されるまで

[1]旧石器時代の石器を発見

中学校の先生であり、考古学(発掘調査で歴史を調べる)研究を行っていた大沢鷹邇(ようじ)さんが、石神井川の源流だったと考えられる場所から石器を見つけました。
その情報を、武蔵野郷土館(現在の江戸東京たてもの園)の考古学研究者の吉田格いたるさんに提供し、1967年に東京学芸大学考古学クラブと一緒に調査が行われました。
その結果、旧石器時代の石器が見つかったと報告されました。
当初は鈴木遺跡ではなく「回田(めぐりた)遺跡」と呼んでいました。

[2]鈴木小学校が鈴木遺跡発掘調査のきっかけに

1974年に、鈴木小学校建設のために地面を掘っていたところ、未知の空洞が見つかりました。
この空洞について、市内在住の文化財保護審議委員であり、國學院大学助教授の加藤有次さんに相談すると、この場所に遺跡があるかを調べる試掘調査を行うべきだと指摘されました。

[3]鈴木小学校建設を中断し、試掘調査へ

工事を中断して、1974年6月29日から7月1日までの3日間で試掘調査を実施しました。
最終日に、焼けた石(礫れき)や石器が鈴木小学校建設予定地から発見されたことから、鈴木遺跡と名付けられました。

[4]試掘調査から発掘調査へ

1974年の8月から1975年9月までという短期間で本格調査が行われ、12枚の文化層が確認されました。
これにより、それまであいまいだった南関東地方の後期旧石器時代の石器の形の変化や、石器の種類の組み合わせの移り変わりが明らかになりました。
(注) 文化層とは、同じ時期に住んでいた人の生活の跡のことで、石器を作る際に破片が飛び散った跡や、料理に使った焼けた石などが、ひろがりをもって見つかる層状の出土品のまとまりなどを指します。
これ以降、鈴木小学校西側の新小金井街道などでも発掘調査が行われてきました。

未知の空洞の真相

[2]で見つかった未知の空洞は、江戸時代に使われていた水車を回すための、水を流すトンネル状の水路(胎内堀)でした。
1970年ごろは、江戸時代のものを考古学の研究対象とすることがまだ一般的でなかったため、この記録も重要な成果の一つといえます。

鈴木遺跡の魅力

旧石器時代の人々が石神井川の源流部で次々と生活していたために、鈴木遺跡は規模が大きく、日本の後期旧石器時代の約22,000年間の時々で使われた、たくさんの貴重な出土品が見つかっています。
それまで、江戸時代に玉川上水が掘られてから小平に人が住みはじめたと考えられてきました。
しかし、鈴木遺跡の発見によって、旧石器時代にも人が住んでいたことが分かりました。
よって、鈴木遺跡は小平の歴史にとって、重要な遺跡です。
さらに、1つの遺跡の中で12枚もの文化層が見つかったことから、石器の変遷が明らかとなりました。
これは後期旧石器時代の指標になるため、日本の歴史、特に南関東の後期旧石器時代を知るうえで大変重要な遺跡として、令和3年に国史跡に指定されました。
今後は鈴木遺跡の当時の景観を体験できるような広場を目指して整備する予定です。

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2024年10月1日号 7面

2024年10月1日号 目次

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FAX:042-346-9507

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