小平市役所
法人番号:2000020132110
〒187-8701 東京都小平市小川町2-1333
代表 042-341-1211
市報こだいら2面の記事を抜粋して掲載します。
現在、市内の窪地の多くは舗装されて緩やかな坂道になっています。
しかし、昔は急な坂や段差として人々の生活に深く関わっていました。
ふだん気付かないような地形と小平の物語を探ります。
幕末期の火薬製造水車場所の決め手は段差
鈴木遺跡(現在の鈴木小学校周辺)は、石神井川の谷の先端にあります。
江戸時代、ここには小麦などをひく巨大な水車がありました。
この水車は、江戸時代末期の黒船来航後、国防のためお台場に設置された大砲用の火薬を作る水車として使われることになります。
火薬は、木炭、硫黄、硝石をひいて混ぜた黒色火薬です。
火薬の原料は硬く、強力な水車の力、水輪を回す水の力が必要でした。
鈴木遺跡の場所は、玉川上水からの水、巨大な水輪を回すための水を落とす段差、落ちた水を流す石神井川のかつての水源部が近くにありました。
この地形のおかげで約6メートル60センチメートルと、建物三階建てほどの巨大な水輪が回る水車を作ることができました。
しかし、火薬製造水車はわずか10か月ほどで爆発し、「危ないから止めてほしい」と言う周辺の農家たちからの訴えで、もとの粉ひき水車に戻りました。
水車は、現在の鈴木小学校校舎付近にありました。
水は、鈴木新田北側田用水(現在は残っていません)から引き、新小金井街道側の鈴木小学校校舎付近に落としていました。
落ちた水は小学校体育館の南側を通り、小金井カントリー倶楽部内の石神井川までつながっていたとされています。
鈴木遺跡発掘のきっかけとなった幕末期の水車や、水田の跡の解説をします。
また、発掘調査で発見された江戸時代から明治時代の薬容器や、昭和初期の納税完納賞と書かれた茶わんなど、当時の人々の暮らしを知る貴重な資料も展示します。
とき
5月22日までの水曜・土曜・日曜日、祝日 午前10時から午後4時まで
(注) 大型連休期間の開館情報は、7面をご覧ください。
ところ
鈴木遺跡資料館(鈴木町1丁目487番地-1)
問合せ
文化スポーツ課 電話 042(346)9501
だいだらぼっちは、伝説の巨人で、日本各地にさまざまな伝承が残っています。
天神窪、平安窪、山王窪など点々と続く市内の窪地は、だいだらぼっちが富士山に向かって歩いた足跡だという話が残っています(小平ちょっと昔より)。
これらの窪地は、畑が多く残っていた昭和30年ごろまで深さが1メートルから5メートルほどあり、道路が舗装される前は青梅街道から天神窪を通るとき、坂が現在よりも急で、上るのに苦労したそうです。
台風や長雨が続く秋ごろ、こうした窪地には地面にしみ込んだ水が湧いて1か月から2か月は水が引かず水たまりが残っていたそうです。
平安窪では、百メートル四方ほどの大きな水たまりができて、小舟を使って畑などへ往来をしていました。
窪地に溜まった水の形が、大きな足跡に見えたことから、だいだらぼっちの足跡だと言われるようになったのかもしれません。
現在、これらの窪地は都市化などで舗装・整備され、今はゆるやかな坂道として面影を残しています。
湧き出た野水は冷たく、澄んでとてもきれいに見えたそうです。
「湖のように水がたまり、かもが優雅に泳いでいる光景は美しく、今でもその景色を忘れられない」と当時を思い出す方もいます。